『いつも通りの』

小鳥遊 茜

 いつも通りの朝、いつも通りの通学路。

 茉莉架もやっぱりいつも通り、セーラー服にローファー履いて、緩いウェーブの髪を無造作に束ねた姿で、無理のない速度で学校までの道のりを歩く。

 そんなことは毎日のこと。

 別にこれと云って思うことなんか何も、ない。

 ただ過ぎる日常に身を任せ。友人との他愛の無いお喋り、少し胸の高鳴る恋の想い出と破綻の涙――

 今日もいちにちをそんな風に過ごすべく、ただ歩いていた。

 その、筈だった。

 やたらに綺麗な顔した、少し髪の長いその少年に微笑みかけられる瞬間までは。

「……なに?」

 少年が自分を見て微笑ったのは明確だった。だって、周りには茉莉架以外誰もいなかったから。

「ナンパだよ。おねーちゃん」

 茉莉架は少年の真黒な眸を見おろす――少年はどう見ても小学生くらい、5歳も年下のオトコノコにナンパされるなんて、一体どう言って良いのやら判らず、逡巡する。

 それを見た少年は歯を見せて笑って、茉莉架の手を、何の躊躇いもなく握った。

「一緒に遊びに行こうよ」

「駄目よ。あたし学校あるンだから……君だって学校でしょ?」

 少年は茉莉架のセーラー服の、たくさん襞のあるスカートを、ぴらっとめくった。

「花柄」

 一呼吸の硬直の後、茉莉架の頬が真赤に染まる。

「……エロガキ!」

 思わず振り上げた拳、少年はそれでも楽しそうに笑った。

「オレ蛍。ほたる。ほたるって呼んでよ」

 つながれた手を強引に引っ張って、蛍は駆け出す。日向に出ると、暑い夏の日差しが眩しくて、茉莉架は目を閉じた。

 今すぐ手を振り解いて学校へ向かわなければならない。

 じゃないと、遅刻してしまう……サボるなんてもっての他だった。茉莉架はごく普通の高校生だ。

 だけど――そう出来なかった。

 どうしてなのか、自分でも判らなかった。

 蛍は河へ茉莉架を連れてくると、靴を脱いで颯爽と水の中に素足をさらした。

「茉莉架もおいでよ」

 と、透明な水を両手に掬って、空へ向かって投げる。

 それは陽光を受けて、きらめいた。

 ゆっくり、ゆっくりと落ちて、茉莉架のセーラー服をぬらした。

 とうとう茉莉架もローファーを脱ぎ捨て、ハイソックスを乱暴に取って、水に入った。

 水は、綺麗だった。

 家に帰るのが怖かった。結局学校をサボってしまった。案の定学校から連絡の入った母親はカンカンで、茉莉架を正座させて小一時間説教した。

 茉莉架にとって親にこんなに怒られるなんてはじめての経験で、少し涙をこぼしたけれど、何故か、今日のことは後悔していなかった。

 楽しかったから。

 何だかとっても、楽しかったから。

 蛍の、陽に透けて薄い茶色のさらさらの髪を思い出しながら、茉莉架はベッドに入る。

 明日も、とは言わなかった。連絡先だって、苗字だって、訊かなかった。

――訊けば良かった。

 こんなことを思う自分が不思議で。判らなくて。戸惑いを覚えた。

 明日の英語の予習、してない。いつもは欠かさずやってた。自分が判らなかった。

 胸が、ドキドキした。

 でも今日はいっぱい遊んだから。瞼が、重い。

 いつも通りの朝。いつも通りの通学路。

 だけど茉莉架の心の奥底には、蛍がいた。存在していた。

 蛍は来なかった。

 教室の窓をぼぅっと見てる茉莉架に、友人は笑顔でやって来る。昨日起こった他愛無い学校での出来事を楽しげに口にする。茉莉架も笑顔を返す。『いつも』が戻っただけだ。これが日常。これが、普通。それだけで良かった。

 『いつも』が帰ってきただけ。

 通学路、夏になると思い出した。

 蜃気楼にぼやけるようにそこに居た、蛍の姿を、無意識に探した。

 そしていつの日か、それを忘れていた。

 もう茉莉架の心に蛍はいなくなっていた。

 五年が経って、それを思い出したのは……思い出させたのは、何故だったんだろう。

 薄い茶色の髪の少年が、微笑みかけた。

「おねーちゃん、一緒に遊ぼうよ」

 あの時と少しも変わらない少年が、其処にいた。

 少年は何も言わずに、茉莉架の手を、取った。

-了-

index